江戸川乱歩全集

怪人二十面相

 江戸川乱歩著 出版:1936年

怪人二十面相は、1936年から連載された「少年探偵シリーズ」の第一作。

東京の至る所に現れ、宝石や美術品を盗む怪人二十面相。怪人二十面相には、必ず前もって予告状を送る奇妙な癖がった。怪人二十面相と明智小五郎、そしてその助手である小林少年と少年探偵団の活躍を描く第一作。


5.池の中


1.はしがき
2.鉄のわな
3.人か魔か
4.魔法使い
5.池の中
6.樹上の怪人
7.壮二君のゆくえ
8.少年探偵
9.仏像の奇跡
10.おとしあな
11.七つ道具
12.伝書バト
13.奇妙な取りひき
14.小林少年の勝利
15.おそろしき挑戦状
16.美術城
17.名探偵明智小五郎
18.不安の一夜
19.悪魔の知恵
20.巨人と怪人
21.トランクとエレベーター
22.二十面相の逮捕
23.「わしがほんものじゃ」
24.二十面相の新弟子
25.名探偵の危急
26.怪盗の巣くつ
27.少年探偵団
28.午後四時
29.名探偵の狼藉
30.種明し
31.怪盗捕縛

5.池の中

賊がピストルを投げだして、外へとびおりたのを見ると、壮太郎氏はすぐさま、窓のところへかけつけ、暗い庭を見おろしました。
 暗いといっても、庭には、ところどころに、公園の常夜燈のような、電燈がついているので、人の姿が見えぬほどではありません。
 賊はとびおりたひょうしに、一度たおれたようすですが、すぐムクムクとおきあがって、ひじょうな勢いでかけだしました。ところが、案のじょう、彼は例の花壇へとびこんだのです。そして、二―三歩花壇の中を走ったかと思うと、たちまち、ガチャンというはげしい金属の音がして、賊の黒い影は、もんどり打ってたおれました。
「だれかいないか。賊だ。賊だ。庭へまわれ。」
 壮太郎氏が大声にどなりました。
 もし、わながなかったら、すばやい賊は、とっくに逃げさっていたことでしょう。壮二君の子どもらしい思いつきが、ぐうぜん功を奏したのです。賊が、わなをはずそうともがいているあいだに、四ほうから人々がかけつけました。背広服のおまわりさんたち、秘書たち、それから運転手、総勢七人です。
 壮太郎氏もいそいで階段をおり、近藤老人とともに、階下の窓から、電燈を庭に向けて、捕り物の手だすけをしました。
 ただみょうに思われたのは、せっかく買いいれた猛犬のジョンが、このさわぎに姿をあらわさないことでした。もし、ジョンが加勢してくれたら、まんいちにも、賊をとりにがすようなことはなかったでしょうに。
 二十面相が、やっとわなをはずして、起きあがったときには、手に手に懐中電燈を持った追っ手の人たちが、もう十メートルの間近にせまっていました。それもいっぽうからではなくて、右からも、左からも、正面からもです。
 賊は黒い風のように走りました。いや、弾丸のようにといったほうがいいかもしれません。追っ手の円陣のいっぽうを突破して、庭の奥へと走りこみました。
 庭は公園のように広いのです。築山があり、池があり、森のような木立ちがあります。暗さは暗し、七人の追っ手でも、けっして、じゅうぶんとはいえません。ああ、こんなとき、ジョンさえいてくれたら……。
 しかし、追っ手は必死でした。ことに三人のおまわりさんは、捕り物にかけては、腕におぼえの人々です。賊が築山の上のしげみの中へかけあがったと見ると、平地を走って、築山の向こうがわへ先まわりをしました。あとからの追っ手と、はさみうちにしようというわけです。
 こうしておけば、賊は塀の外へ逃げだすわけにはいきません。それに、庭をとりまいたコンクリート塀は、高さ四メートルもあって、はしごでも持ちださないかぎり、乗りこえるすべはないのです。
「アッ、ここだっ、賊はここにいるぞ。」
 秘書のひとりが、築山の上のしげみのなかでさけびました。
 懐中電燈の丸い光が、四ほうからそこへ集中されます。しげみは昼のように明るくなりました。その光の中を、賊は背中をまるくして、築山の右手の森のような木立ちへと、まりのようにかけおります。
「逃がすなっ、山をおりたぞ。」
 そして、大木の木立ちのなかを、懐中電燈がチロチロと、美しく走るのです。
 庭がひじょうに広く、樹木や岩石が多いのと、賊の逃走がたくみなために、相手の背中を目の前に見ながら、どうしてもとらえることができません。
 そうしているうちに、電話の急報によって、近くの警察署から、数名の警官がかけつけ、ただちに塀の外をかためました。賊はいよいよ袋のネズミです。
 邸内では、それからまたしばらくのあいだ、おそろしい鬼ごっこがつづきましたが、そのうちに、追っ手たちは、ふと賊の姿を見うしなってしまいました。
 賊はすぐ前を走っていたのです。大きな木の幹をぬうようにして、チラチラと見えたりかくれたりしていたのです。それがとつぜん、消えうせてしまったのです。木立ちを一本一本、枝の上まで照らして見ましたけれど、どこにも賊の姿はないのです。
 塀外には警官の見はりがあります。建物のほうは、洋館はもちろん、日本座敷も雨戸がひらかれ、家中の電燈があかあかと庭を照らしているうえに、壮太郎氏、近藤老人、壮二君をはじめ、お手伝いさんたちまでが、縁がわに出て庭の捕り物をながめているのですから、そちらへ逃げるわけにもいきません。
 賊は庭園のどこかに、身をひそめているにちがいないのです。それでいて、七人のものが、いくらさがしても、その姿を発見することができないのです。二十面相はまたしても、忍術を使ったのではないでしょうか。
 けっきょく、夜の明けるのを待って、さがしなおすほかはないと一|決しました。表門と裏門と塀外の見はりさえげんじゅうにしておけば、賊は袋のネズミですから、朝まで待ってもだいじょうぶだというのです。
 そこで、追っ手の人々は、邸外の警官隊を助けるために、庭をひきあげたのですが、ただひとり、松野という自動車の運転手だけが、まだ庭の奥にのこっていました。
 森のような木立ちにかこまれて、大きな池があります。松野運転手は人々におくれて、その池の岸を歩いていたとき、ふとみょうなものに気づいたのです。
 懐中電燈に照らしだされた池の水ぎわには、落ち葉がいっぱいういていましたが、その落ち葉のあいだから、一本の竹ぎれが、少しばかり首を出して、ユラユラと動いているのです。風のせいではありません。波もないのに、竹ぎれだけが、みょうに動揺しているのです。
 松野の頭に、あるひじょうにとっぴな考えが浮かびました。みんなを呼びかえそうかしらと思ったほどです。しかし、それほどの確信はありません。あんまり信じがたいことなのです。
 彼は電燈を照らしたまま、池の岸にしゃがみました。そして、おそろしいうたがいをはらすために、みょうなことをはじめたのです。
 ポケットをさぐって、鼻紙をとりだすと、それを細くさいて、ソッと池の中の竹ぎれの上に持っていきました。
 すると、ふしぎなことがおこったのです。うすい紙きれが、竹の筒の先で、ふわふわと上下に動きはじめたではありませんか。紙がそんなふうに動くからには、竹の筒から、空気が出たりはいったりしているにちがいありません。
 まさかそんなことがと、松野は、自分の想像を信じる気になれないのです。でも、このたしかなしょうこをどうしましょう。命のない竹ぎれが、呼吸をするはずはないではありませんか。
 冬ならば、ちょっと考えられないことです。しかしそれは、まえにも申しましたとおり、秋の十月、それほど寒い気候ではありません。ことに二十面相の怪物は、みずから魔術師と称しているほど、とっぴな冒険がすきなのです。
 松野はそのとき、みんなを呼べばよかったのです。でも、彼は手がらをひとりじめにしたかったのでしょう。他人の力を借りないで、そのうたがいをはらしてみようと思いました。
 彼は電燈を地面におくと、いきなり両手をのばして、竹ぎれをつかみ、ぐいぐいと引きあげました。
 竹ぎれは三十センチほどの長さでした。たぶん壮二君が庭で遊んでいて、そのへんにすてておいたものでしょう。引っぱると、竹はなんなくズルズルとのびてきました。しかし、竹ばかりではなかったのです。竹の先には池のどろでまっ黒になった人間の手が、しがみついていたではありませんか。いや、手ばかりではありません。手のつぎには、びしょぬれになった、海坊主のような人の姿が、ニューッとあらわれたではありませんか。

   
この作品は現在パブリックドメインのため、古典の本棚に掲載しております。