2. 怪物追跡
やみと同じ色をした怪物が、東京都のそこここに姿をあらわして、やみの中で、白い歯をむいてケラケラ笑うという、うすきみの悪いうわさが、たちまち東京中にひろがり、新聞にも大きくのるようになりました。
年とった人たちは、きっと魔性のものがいたずらをしているのだ、お化けにちがいないと、さもきみ悪そうにうわさしあいましたが、若い人たちは、お化けなぞを信じる気にはなれませんでした。それはやっぱり人間にきまっている。どこかのばかなやつが、そんなとほうもないまねをして、おもしろがっているのだろうと考えていました。
ところが、日がたつにつれて、お化けにもせよ、人間にもせよ、その黒いやつは、ただいたずらをしているばかりではない、何かしらおそろしい悪事をたくらんでいるにちがいないということが、だんだんわかってきたのです。
あとになって考えてみますと、この黒い怪物の出現は、じつに異常な犯罪事件のいとぐちとなったのでした。できごとは東京を中心にしておこったのですが、それに関係している人物は、日本人ばかりではなく、いわば国際的な犯罪事件でした。
では、これから、黒い魔物のいたずらが、だんだん犯罪らしい形にかわっていくできごとを、順序をおってお話しましょう。
読者諸君がよくご承知の、小林少年を団長にいただく少年探偵団の中に、桂正一君という少年がいました。桂君のおうちは、世田谷区の玉川電車の沿線にあって、羽柴壮二君たちの学校とはちがいましたけれども、正一君と壮二君とはいとこどうしだものですから、壮二君にさそわれて少年探偵団にくわわったのです。
桂君は、自分が探偵団にはいっただけでなく、やはり玉川電車の沿線におうちのある、級友の篠崎始君をさそって、ふたりで仲間入りをしたのです。
ある晩のこと、桂正一君は、電車一駅ほどへだたったところにある、篠崎君のおうちをたずねて、篠崎君の勉強部屋で、いっしょに宿題をといたり、お話をしたりして、八時ごろまで遊んでいましたが、それから、おうちに帰る途中で、おそろしいものに出あってしまったのです。
もし、おくびょうな少年でしたら、少しまわり道をして表通りを歩くのですけれど、桂君は学校では少年相撲の選手をしているほどで、腕におぼえのある豪胆な少年でしたから、裏通りの近道を、テクテクと歩いていきました。
両がわは長い板塀や、コンクリート塀や、いけがきばかりで、街燈もほの暗く、夜ふけでもないのに、まったく人通りもないさびしさです。
春のことでしたから、気候はちっとも寒くないのですが、そうして、まるで死にたえたような夜の町を歩いていますと、なんとなく首すじのところが、ゾクゾクとうそ寒く感じられます。
一つのまがりかどをまがって、ヒョイと前を見ますと、二十メートルほど向こうの街燈の下を、黒い人影が歩いていきます。それが、おかしなことには、帽子もかぶらず、着物も着ていない。そのくせ、頭のてっぺんから足の先まで、墨のようにまっ黒な人の姿です。
さすがの桂少年も、この異様な人影をひと目見ると、ゾーッとして立ちすくんでしまいました。
「あいつかもしれない、うわさの高い黒い魔物かもしれない。」
心臓がドキドキと鳴ってきました。背すじを氷のようにつめたいものが、スーッと走りました。桂君はもう少しのことで、いちもくさんにうしろへ逃げだすところでした。しかし、逃げなかったのです。やっとのことでふみとどまったのです。
桂君は、自分が名誉ある少年探偵団の一員であることを、思いだしました。しかも、たった今、篠崎君の家で、黒い魔物の話をして、
「ぼくが、もしそいつに出あったら、正体を見あらわしてやるんだがなあ。」
と、大きなことをいってきたばかりです。
桂君は少年探偵団のことを考えると、にわかに勇気がでてきました。
いけがきのかげに身をかくして、じっと見ていますと、怪物は、うしろに人がいるとは少しも気のつかぬようすで、ヒョコヒョコおどるように歩いていきます。見まちがいではありません。たしかに全身まっ黒な、まるで黒ネコみたいな人の姿です。
「やっぱりお化けや幽霊じゃないんだ。ああして歩いているところをみると、人間にちがいない。」
桂君は、大胆にも、相手にさとられぬよう、ソッとあとをつけてやろうと決心しました。
怪物は、まるで地面の影が、フラフラと立ちあがって、そのまま歩きだしたような感じで、グングンと遠ざかっていきます。おそろしく早い足です。桂君は、物かげへ物かげへと身をかくしながら、相手を追っかけるのが、やっとでした。
町をはなれ、人気のない広っぱを少し行きますと、大きな寺のお堂が、星空にお化けのようにそびえて見えました。養源寺という江戸時代からの古いお寺です。
黒い魔物は、その養源寺のいけがきに沿って、ヒョコヒョコと歩いていましたが、やがて、いけがきのやぶれたところから、お堂の裏手へはいってしまいました。
桂君は、だんだんきみが悪くなってきましたけれども、今さら尾行をよすのはざんねんですから、両手をにぎりしめ、下腹にグッと力を入れて、同じいけがきのやぶれから、暗やみの寺内へとしのびこみました。
見ると、そこは一面の墓地でした。古いのや新しいのや、無数の石碑が、ジメジメとこけむした地面に、ところせまく立ちならんでいます。空の星と、常夜灯のほのかな光に、それらの長方形の石が、うす白くうかんでいるのです。
桂君は怪談などを信じない現代の少年でしたけれど、そこが無数の死がいをうずめた墓地であることを知ると、ゾッとしないではいられませんでした。
怪物は、石碑と石碑のあいだのせまい通路を、右にまがり左にまがり、まるで案内を知ったわが家のように、グングンと中へはいっていきます。黒い影が白い石碑を背景にして、いっそうクッキリとうきあがって見えるのです。
桂君は、全身にビッショリ冷や汗をかきながら、がまん強くそのあとを追いました。さいわい、こちらは背が低いものですから、石碑の陰に身をかくして、チョコチョコと走り、ときどき背のびをして、相手を見うしなわないようにすればよいのでした。
ところで、桂君が、そうして、何度めかに背のびをしたときでした。びっくりしたことには、思いもよらぬ間近に、石碑を二つほどへだてたすぐ向こうに、黒いやつが、ヌッと立っていたではありませんか。しかも、真正面にこちらを向いているのです。まっ黒な顔の中に、白い目と白い歯とが見えるからには、こちらを向いているのにちがいありません。
怪物はさいぜんから、ちゃんと尾行を気づいていたのです。そして、わざとこんなさびしい墓地の中へ、おびきよせて、いよいよたたかいをいどもうとするのかもしれません。
桂少年は、まるでネコの前のネズミのように、からだがすくんでしまって、目をそらすこともできず、そのまっ黒な影法師みたいなやつと、じっと、顔を見あわせていました。胸の中では、心臓がやぶれそうに鼓動しています。
今にも、今にも、とびかかってくるかと、観念をしていますと、とつぜん、怪物の白い歯がグーッと左右にひろがって、それがガクンと上下にわかれ、ケラケラケラ……と、怪鳥のような声で笑いだしました。
桂君は何が何だか、もうむがむちゅうでした。おそろしい夢をみて、夢と知りながら、どうしても、目がさませないときと同じ気持で、「助けてくれー。」とさけぼうにも、まるでおしになったように、声が出ないのです。
ところが、怪物のほうでは、べつにとびかかってくるでもなく、いやな笑い声をたてたまま、フイと石碑のかげに、身をかくしてしまいました。
かくれておいて、またバアとあらわれるのではないかと、立ちすくんだまま、息を殺していても、いつまで待っても、ふたたびあらわれるようすがありません。といって、その石碑の向こうから立ちさったけはいもないのです。もしその場を動けば、石碑と石碑のあいだに、チロチロと黒い影が見えなければなりません。
深い海の底のように静まりかえった墓地に、たったひとり、とりのこされた感じです。どちらを向いても動くものとてはなく、つめたい石ばかり、桂君は、夢に夢みるここちでした。
やっと気をとりなおして、さいぜんまで怪物が立っていた石碑の向こうへ、オズオズと近よってみますと、そこはもうからっぽになって、人のけはいなどありません。念のために、そのへんをくまなく歩きまわってみても、どこにも黒い人の姿はないのです。
たとえ地面をはっていったとしても、その場所を動けば、こちらの目にうつらぬはずはないのに、それが少しも見えなかったというのは、ふしぎでしかたがありません。あの怪物は西洋の悪魔が、パッと煙をだして、姿を消してしまうように、空中に消えうせたとしか考えられません。
「あいつは、やっぱりお化けだったのかしら。」
ふと、そう思うと、桂君は、がまんにがまんをしていた恐怖心が、腹の底からこみあげてきて、何かえたいのしれぬことをわめきながら、むがむちゅうで墓地をとびだすと、息もたえだえに、明るい町のほうへかけだしました。
桂少年は、怪物は墓地の中で、煙のように消えてしまったということを、のちのちまでもかたく信じていました。
しかし、そんなことがあるものでしょうか。もし黒い魔物が人間だとすれば、空気の中へとけこんでしまうなんて、まったく考えられないことではありませんか。